仏教 |
死後の世界<生き返ることのない極楽浄土へ |
仏教について |
■教祖 釈迦(紀元前0463年誕生)
■成立 紀元前0428
■聖地 釈迦誕生の「ルンビニー」
釈迦が仏陀になった「ブッダガヤー」
五比丘を教化した「アルナート」
涅槃の地「クシナガラ」
■聖典 小乗教典(阿含教)、大乗教典、密教教典 |
輪廻のない世界へ |
●仏教も「輪廻転生」を受けついでいます。死後、人は死後の旅「中有(ちゅうゆう)・中陰(ちゅういん)」(死んでからつぎに生まれ変わるまでの中間存在:49日間)をへて、地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人(じん)・天(てん)の六つの世界、六道(りくどう)にわけられ、生まれ変わります。
●どの世界に生まれ変わるかは、生前のおこないが善行か悪行かによってきまります。これを「因果応報(いんがおうほう)」といいます。この「因果応報」の鎖(くさり)をたちきるには、「輪廻のない世界=浄土(じょうど)」にいくしかありません。この方法をおしえるのが仏教です。
●ただし、この教えは、仏教を説くまえの道徳的方便(ほうべん)または、仏教の大衆化をはかるもので、死にたいする浅い考えだといわれています。
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輪廻転生と無我の矛盾 |
この霊が存在しないとの考えは、輪廻転生からの解脱の方法を「梵我一如」、アートマン(我)を形成する霊魂と絶対真理のブラフマン(梵)と一体化する知力にもとめたヒンドゥー教とは、するどく対立します。葬儀においても、火葬を神聖な儀式ととらえるヒンドゥー教にたいして、仏教は葬式や法事といった儀式とは、特別な関係はありませんでした。むしろ、釈迦は出家修行者は葬儀にかかわるなとたしなめています。ヒンドゥー教にとっては、仏教は来世を信じない異端の教えでした。
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ヒンズー教 |
死後の世界<輪廻転生> |
ヒンズー教について |
■教祖 多神教 ■成立 紀元前1000年(母体はバラモン教) ■聖地 ガンジス河畔「ベナレス」 ■聖典 リグ・ヴェータ(神々への賛歌集/古代バラモン教) |
水が生命原理 |
人は死後、肉体はほろんでも、魂は再生し、生まれ変わる。この生死が、「解脱(げだつ)」のない限り永遠にくりかえされるというのが「輪廻転生(りんねてんせい)」です。輪廻説のもっとも古いものは、水を生命原理とする思想にもとづいています。
水は天界から雨となって地上にふり、植物を生長させます。根から水分を吸収して成長した植物は、やがて穀物や果実を実らせます。それらは食べられ精子となり、母胎内にはいり新たな生命として誕生します。そして、人は死んで火葬にされると、水分は煙となってふたたび天上に昇っていきます。こうして生命の循環の経路がなりたちます。
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「業」が輪廻の原因
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輪廻説が明確に説かれはじめるのは「ウパニシャッド(ヒンドゥー教の教典の一つ/前0700ごろ)」の時代からです。輪廻の主体が、人間の本体、永遠不滅の実体であるアートマン(個体を支配する原理/我)であるとされます。このアートマンを支配しているのが「業(ごう)」です。業とは、魂に付着し、その人の生前の行為により魂にはたらきかけ、その人の死後の運命を決定づける目にみえない力です。来世にいかなる生をうけるかは、現世の業のいかんにかかっています。
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火葬は聖なる儀礼 |
この業・輪廻の思想は、現代のインドにおいても支配的な考えです。葬儀においても、ガンジス河のほとりで火葬にして、煙とともに魂は天にのぼるということが、聖なる葬送儀礼です。ガンジス河はまさに輪廻転生の象徴なのです。
遺体は薪(まき)のつみあげられた台のうえに安置され、薪にバター油かガソリンをふりそそぎます。僧侶は遺体に聖水をかけて読経します。祭壇の火で遺体に点火します。遺灰は河に流されます。また、個霊はほかに転生しますから、お墓をつくる必要がありえません。 |
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ユダヤ教 |
死後の世界<ユダヤ民俗に約束された天国へ> |
ユダヤ教について |
■教祖 モーゼ ■成立 紀元前477(紀元前1300年の説も/出エジプト) ■聖地 エルサレム ■聖典 「法律(モーゼ五書)」「預言者」「諸事」
「タルムード(口伝法律書)」/いわゆる「旧約聖書」 |
エルサレムの実現 |
ユダヤ教は「旧約聖書」し示されたユダヤ民俗だけを信徒とする「民俗宗教」です。このため、いわゆる「天国」も、自分たちの民俗のためだけの理想郷の実現を意味しているようです。その理想郷が「罪深き他国民が滅ぼされた楽園、エルサレム」です。一神教のヤハウェがユダヤ民俗に約束したのです。それを実現させてくれるのが、救世主「メシア」です。 |
旧約聖書 |
ただし、「旧約聖書」の影響力は絶大です。というのも「旧約聖書」は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の世界3大宗教共通の正典になっているため、アジア圏をのぞけば世界中にひろがっているからです。ユダヤ教の信者そのものは、世界で約2000万人弱といわれています。アメリカが約800万人、イスラエルが約500万人。ちなみに「メシア」をギリシャ語にするとクリストス、つまりキリストになりますが、ユダヤ教にとってはイエス・キリストは「メシア」ではありません。イエスは、反抗的な異端分子でした。
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サタンの支配する「現世」 |
また、「天国」とおなじように一般的な死後の世界としての「地獄」もユダヤ教にはありません。「天国」にたいする概念として「地獄」というなら、サタンの支配しているこの世界、あるいは他民族や異教徒が跋扈(ばっこ)して、理想のエルサレムの実現を妨害してる現状が「地獄」とうつるのかもしれません。
よって「死」または「死後」についての積極的な考えはありません。ユダヤ民俗の苦しみ、悩み、あるいは戦いが問題の中心です。なお、サタン(悪魔)は神と肩をならべて対立しうる存在ではありません。「悪魔(サタン)」とは、神の使いである「天使(聖霊)」に対立する「悪の使者(悪霊/堕天使)」という存在です。神という「唯一絶対存在」のもとで「聖霊と悪霊との対立」という「善悪二元論」が一神教の筋書きです。
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最後の審判
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神の「最後の審判」によって、先程のサタンの支配がおわる「終末」がきます。そして異教徒やほかの民俗がほろんだ楽園「エルサレム」が実現します。そのとき、多くの人はよみがえり、そこで裁きがあって、ある者は永遠の命を受け、ある者は恥と、かぎりなき恥辱(ちじょく)を受けます。いずれにしても死者は生前の姿で復活しますからイスラエルでは、埋葬はすべて土葬です。 |
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キリスト教 |
死後の世界<死ぬことのない神の国へ> |
キリスト教について |
■教祖 イエス・キリスト(紀元前4年誕生) ■成立 西暦28年 ■聖地 エルサレム(ヴァチカンは聖ペトロの埋葬地/カトリックの総本山) ■聖典 聖書(旧約聖書と新約聖書) |
死は、「原罪」の罰 |
●キリスト教にとっては、死は人類の始祖アダムの犯した罪(原罪/げんざい)の結果であり、罪に対する罰(ばつ)です。「原罪」とは、旧約聖書の「創世記」で、神が固く禁じていたにもかかわらず、イヴが蛇にそそのかされて禁断の木の実を食べ、アダムもそれに追随した「人類最初の罪」を犯します。 ●キリスト教では、この罪を「人間が生まれながらにして負っている神への罪」という意味にまで拡大した「原罪」という独自の概念をつくりました。ユダヤ教では、この罪の概念は単なる神の罰(楽園追放=失楽園)や戒めと理解しているようです。 |
「原罪」を引きうける |
●キリスト教では、この「原罪」が教義の中心テーマとなります。イエス・キリストは、神に対して生まれながらに人間に代わり、人間の「原罪」を自ら引きうけて、人間のために死にました。神は十字架を背負って死んだキリストを復活させ、人類を救う神の愛の行為をキリストの死と復活によって啓示したのです。 ●人類(キリスト教信者)は、このキリストの死の行為を信仰によって自らのものとすることで、自らの死を克服し、神の国、永遠の命にむかえ入れられるのです。
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キリスト再臨で千年王国 |
●神の国の完成形は、ユダヤ教とおなじで、サタンの支配がおわる「終末」をむかえ、「キリストの再臨」で至福(しふく)の千年王国がはじまります。このとき埋葬された死人たちはすべて生き返り、「最後の審判」をうけます。 ●そして、この復活のときは、生前の姿で復活します。このため埋葬は、柩(ひつぎ)に遺体を入れた「土葬」ということになります。ただし、カトリック教(旧教)では、「土葬」が支配的ですが、プロテスタント教(新教)では、合理的、衛生的な死体処理として「火葬」がすすんでいます。 ●また、人間の肉体は霊の閉ざされた器と考え、死後それが解放されて精神の世界に昇天すると信じられていますので、日本人のように遺体や遺骨に特別な感情移入はしません。
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イスラム教 |
死後の世界<死による神の国> |
イスラム教について |
■教祖 ムハンマド(マホメット:西暦570年誕生) ■成立 西暦614年 ■聖地 エルサレム、ムハンマドの出生地「メッカ」 ■聖典 コーラン(旧約聖書、新約聖書も補典的に取りいれている |
アラー=コーラン
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●アラーとムハンマドとコーランの関係は、神≧イエス・キリスト(神の子)≧聖書あるいは仏陀≧釈迦(仏陀になった、または仏陀の化身)≧仏典といった関係ではなく、アラー≧コーランです。
●ムスリム(アラーの教えに身をゆだねた人)はコーランの言葉をアラー直々の言葉だと信じています。神自らがアラビア語で語り、ムハンマドはそれを人々に伝えたにすぎません。神と人間の仲介者はムハンマドではなく、コーランです。ムハンマドがその死後も教義的な意味で神格化されませんでした。ムハンマドにはキリストや釈迦のような救済者の役割はありません。救世主は神アッラーです。それほど、ムスリムにとってコーランは神聖視されています。
●また、イスラム教からみたイエスはキリスト(メシア/救世主)でもなければ、神の子でもありません。ムハンマドとおなじ偉大な預言者の一人として尊敬します。イエスの預言は不完全ですが、ムハンマドの預言は、完全な言葉で神の意志を啓示し、最後の預言者となります。
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終末は裁きの日 |
●来世は単なる個人の死後の世界ではありません。終末はいつか突然きます。その日は、大地は裂け、天の星は落ち、海は沸騰(ふっとう)します。現在の秩序が一切崩壊する天変地異がおきるのです。そして、人は裁きの場にひきだされ、死んだ人もすべて元の身体でよみがえり、裁きを受けなければなりません。
●裁きは、一人ずつ神の前に呼びだされます。そこで現世での行いを記録した帳簿を見せられ、尋問(じんもん)を受けます。現世でのすべての生き方が、その人の究極の救済を左右するのです。
●悔い改め真のムスリム(アラーの教えに身をゆだねた人)となったものは、もはや死を恐れなくなります。恐れるのは、死よりも、まだ充分に悔い改めないうちに死が訪れることです。若いときから死の必至を考え、真の教えに従うように努めなければなりません。
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遺体の頭はメッカの方向へ |
●埋葬は、火葬の習慣はありません。むかし「土葬」でしたが、いまはあらかじめ設けていたレンガ造りの墓穴に納めるのが普通です。遺体の頭は必ずメッカの方向に向けて横たえ、その両脇には故人が復活の日に立ち上がれるように、木の枝をつえ代わりにはさむところもあります。
●埋葬の夜、喪家では一晩中灯火をともし、香をたき、それから40日間喪に服して慶事(けいじ)をさけます。
●霊魂は埋葬の次の日に肉体をはなれ、善良な人の霊魂は終末の日まで、定めの場所にとどまり、邪悪な人の霊魂は、終末の日まで牢獄に閉じこめられます。
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